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2025.02.02

ファミリアの欺瞞(というと失礼ですが)

ピーナッツの "コミックはキャラクターグッズの引き立て役" 史観ネタの連投になりますが、改めて2019年のスヌーピーミュージアム展で書かれていた怪文書を引用しておきます。

スヌーピーが日本にデビューしたのは1960年代終わりのことで、主役はキャラクター商品でした。コミックもいくつかの媒体で出版されましたが、こちらはあくまで脇役で、バッグや文房具、ぬいぐるみなど、スヌーピーの顔をあしらった小物の引き立て役にとどまります

読み返してみても非常にムカムカしてきますな。何とかひっくり返したいです。

それはそれとして、その主役であろうぬいぐるみについて書きます。

一般に、日本でのスヌーピーのブームはファミリアのぬいぐるみから始まったと言われています。NHKの朝ドラにもなりました。1970年、ぬいぐるみ発売にあたりスヌーピーが全くの無名だったことから社内では月に30個くらいしか売れないだろうという声が圧倒的でしたが、社長の奥さん(実は創業者)の強い主張もあり月産500個半年で3000個を発注、結果は読みが見事に当たり、ファミリアすげえという美談になりました。

しかしこの成功譚には『無名のスヌーピーが何故売れたのか』という肝心の部分が欠落しています。そこを伏せて全てファミリアの手柄にするのはちょっとどうなんでしょうか?

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1983年に出版された「日本ライセンシング年鑑」という本の中にちょっとヒントがあります。

この本によりますと、昭和40年頃から女子学生のアメリカ留学が盛んになったとあります。何故「女子学生」なのか?というのはとりあえず置いておきますが、ファミリア創業者の息女も昭和38年に留学していますね。で、この息女は留学中にピーナッツに夢中になり帰国時にピーナッツのペーパーバックなどを持ち帰ったとされていますが、同書でもスヌーピーのぬいぐるみを抱いて帰国する女子留学生の姿を見かけるようになったと記されています。

留学した女子学生の多くがピーナッツ好きになって帰ってきたわけですね。因みに、NHKの谷啓版ピーナッツ・アニメでサリー・ブラウンを演じていた松島トモ子も昭和39年に留学していますので、彼女もこの頃既にピーナッツには触れていたんでしょうな。閑話休題。

日本の海外観光旅行の自由化は昭和39年です。アメリカへ旅行するということが現実的になってきたということで戦後生まれのティーンエイジャーたちのアメリカへの憧れはこれにより一段と強くなり、同時にスヌーピーは、彼女らのステータスシンボルになっていったといいます。

日本にはまだ「ピーナッツ」は紹介されていませんでしたので、ピーナッツというのはアメリカへ行った人か、アメリカの雑誌を読む人しか知らない存在で、当人たちは勿論、感化された女子高生や女子大生にとって、スヌーピーはアメリカへの憧れを象徴するような存在になったというんですな。

このようなファンがぬいぐるみを買っていたとすると、小野耕世の著書にあった『おそらく、いま、「ピーナッツ」くらい、女の子に人気のあるマンガはないだろう。「まあ、かわいい」といいながら、スヌーピーの人形をかかえて、女の子はピーナッツ・ブックを読む。』という記述とも一定符合していると思いますし、結局はコミックを読んでいた人たちによって下支えされていたということなんじゃないでしょうかね。

これが真実と仮定するならば、恣意的でないにせよなぜ売れたのかという部分を明確にせず、また、外野であるアメリカ人等がコミックを脇役だ引き立て役だと主張するのは問題があるということになると思います。

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ついでですが、ファミリアのウィキペディアには、

1964年(昭和39年)4月 - 日本で初めて「スヌーピー」の商品化権を取得し、Tシャツ、ジーンズ、トレーナー、ズボン、スカート等の衣料品と、ぬいぐるみを製造してキャラクターマーチャンダイジングに於ける先鞭を付ける。

とありますが、これは多分間違いですね。1964年の段階では留学から帰国した息女がプライベートでクッションやテーブルクロスにスヌーピーの刺繍などをしていただけであり、実際にぬいぐるみなどを販売するのは1970年になってからです。

また、書籍を商品とすれば1969年に出版権を獲得していた鶴書房の方が先であり、ファミリアが「日本で初めて」ということでもありません。

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