カテゴリー「ピーナッツ・書籍」の434件の記事

2023.08.20

「きみの大好物はなに?」展の図録を読む

スヌーピーミュージアムで2023年7月まで開催されていた「きみの大好物はなに?」展の図録を読みました。

20230820140752

ドキドキしながら序文を読みましたが、特に問題はありませんでした。よかったよかった(念のためですが、ワタシはもうスヌーピーミュージアムには行かないことにしています。図録だけ買って読んでます)。

食がテーマの展示会だったわけですが、こうして図録を読んで改めて考えてみますと、シュルツさんは食のバリエーションは少ないですな。

朝食は大抵シリアル。昼食は大抵ピーナッツバターサンド。夕食は…ドッグフード。

そういえば、人間たちの夕食のシーンってありませんね。大人を出さないという性格上、夕食のような団欒は描けなかったということですな。同様に休日の昼食なんかも出てきません。

あと、シュルツさんは自分の食の好みを作品に反映させすぎですな。自分が嫌いだからって登場人物全員をココナッツ嫌いにするというのは、多様性の面から考えてもあまり良くないように思えます。業界からの反発はなかったんでしょうかね?

・・・・・・

そのほか。

チャーリー・ブラウンが初期に食べていたシリアルの「スニッカースナック」は実在しない創作物だったんですな。まあ漫画に既存のトレードマークを出すわけがないので、そりゃそーか、てな感じですね。

巻末に菓子研究家の福田里香さんのエッセイが載っています。タイトルは、『「ピーナッツ・ブックス」とわたし』となっていますが、読んでみると「ピーナツ・ブックス」についての内容でした。「ピーナツ・ブックス」は「ピーナツ・ブックス」であって、「ピーナッツ・ブックス」ではありません。今日ではPeanutsはすべてピーナッツと表記する、とかいうような理由で校正されたんだとしたら残念です。書名というのは固有名詞なんですから校正したらいかんですよ。福田里香さんが最初から「ピーナッツ・ブックス」と書いていたら?うーん、逆に「ピーナツ・ブックス」に直さないと。

それはそれとして、この人は多分ワタシと同世代なんだろうと思いました。「なんておもしろいんだと夢中で読んだのを覚えています」って書いてますよ!ほら、ちゃんと場さえ提供されていれば小学生だって読みますし、読めば面白いんですよ。成熟した大人の読み物とかいって高いところに上げるのは間違いなんですよ!改めて声を大にして言いたいです。

ただ、この人は「フード・ネタ満載」と書いてますが、ここだけちょっと違和感がありますな。そんなだっけ?

| | コメント (0)

2023.08.17

「スヌーピーがいたアメリカ」エピローグ~訳者あとがきを読む

いよいよエピローグまできました。

エピローグでは大どんでん返し、7章までに書かれてきたことが全部覆されるような衝撃的な内容になっています…って、まあ、ピーナッツを年代順に読んでいればわかることなんですが、端的に言えば飽きられちゃったんですね。

7章までで書かれてきたことは、せいぜい80年代までのことで、ピーナッツが社会的影響力を持っていたのもその頃までということですな。90年代になると、それまで進歩的・実存主義・中道左派と捉えられていたシュルツさんは、その優柔不断な作風ゆえに保守派・伝統主義・右派と捉えられるようになっていました。

晩年のインタビューの、
イ:あなたはどちらかというと保守ですよね
シ:いや、私はリベラルですよ
イ:じゃあ何でロナルド・レーガンと仲いいんですか?
というやり取りは笑っていいのか何なのか…。

ピーナッツの末期について、この本でははっきりと「きらめきを失った」という表現がされていますが、これはワタシも同感で、正直つまらない漫画になってました。線も汚くなったし。4コマのコマ割りに拘らなくなったことを「既存の枠から解放され自由に羽ばたき云々」と気持ち悪い持ち上げ方をする向きもありましたが、あんなものはただの手抜きですし、それで面白くなったわけでもありません。

昔オフ会で大谷芳照さんと90年代はつまらなかったと意気投合したこともありましたな。YOSHIさんは覚えていないと思いますが…閑話休題。

メットライフが契約を打ち切った理由についても、はっきり「人々が関心を持っていない」からだ、と幹部がニューヨーク・タイムズに語っていたことが書かれています。厳しい。これはシュルツさん没後でよかった。聞いたらショックだったでしょうね。

ただ、この章は一応、ピーナッツ全集の刊行とヒット、映画「アイ・ラブ・スヌーピー」の成功、アニメのApple TV+ での配信開始、などなど回復方向にあることを挙げて終わっているのがちょっと救いですね。

ピーナッツは不滅です。未来永劫そうであることを祈ります。

シュルツさんとピーナッツの人気が継続していることは、フォーブスの死亡者長者番付で20年以上トップ5に入り続けていたことで証明されています。ワタシが思うに、90年代はリアルタイムで読まれていたストリップがつまらないので批判にさらされていましたが、連載終了したことでキャリア全体が俯瞰されるようになり、再評価につながったんではないでしょうか。

また、晩年のシュルツさんは所謂クラシック・ピーナッツの図柄を使ったグッズを禁じていましたが、死後これが解禁されたのも大きかったと思います。それは結局のところ、60~70年代の黄金時代が素晴らしく、90年代がつまらなかったことの証明にもなってしまいますが。シュルツさんもそれが解っていたので禁じていたのかもしれません。老いても現役漫画家の矜持でしょうかね。

・・・・・・

最後に訳者あとがきですが、ここでは本書の邦題について触れられています。

原題を直訳すれば「チャーリー・ブラウンのアメリカ~ピーナッツの大衆政治」となるところですが、『ピーナッツ関連本には「スヌーピー」と冠するという日本の慣例に従い「スヌーピーがいたアメリカ」とした』ということが綴られています。スヌーピーと明記した方が耳目を惹くだろうという計算があったとも…。

これはワタシ的にはあまり歓迎できない現実です。昔タワーレコードで、"A Charlie Brown Christmas" の日本盤CDを探していた時、邦題が「スヌーピーのクリスマス」だったために店員に別物と思われ、危うくたどり着けくなるところだった、という苦い思い出がありまして、とても嫌な傾向です。

誰かがこの悪しき慣習を打ち破ってくれることを祈ります。が、そんな日は来るのかな~。

| | コメント (0)

2023.08.16

「スヌーピーがいたアメリカ」第7章を読む

第7章はフェミニズムについてです。

ピーナッツは女性が強い。といえばルーシーですが、ルーシー登場以前からパティやヴァイオレットなどが結構男性陣を圧倒していました。根本的にそういう漫画なんだと言っても過言ではありません。

シュルツさんは、男が女に威張っていても面白くないが逆だったら面白い、と考えていたようです。

しかし、シュルツさんはただ単純に漫画のレトリックのために強い女性を描いていた訳ではなく、伝統的なジェンダーロールを支持しつつもフェミニズムについては結構真剣に取り組んでいたことがこの本を読むとわかります。

テニスのボビー・リッグスとマーガレット・コートの対戦でリッグスが圧勝した時、ルーシーが怒ってリッグス宛に「運が良かっただけよ」と手紙を書くストリップがあります。リッグスは大変な女性蔑視野郎だったので、多くの女性は留飲を下げたんじゃないでしょうか。このあと、リッグスはビリー・ジーン・キング(シュルツさんとは友情を築いていましたね)と対戦してストレート負けしますが、一連の話は「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」という映画になっていますね。

ピーナッツの強い女性と言えば、もう一人ペパミント・パティがいます。彼女はルーシーの不得手なスポーツのジャンルで覇権してますが、本書では彼女のルーシーにはない深みについて触れています。

ペパミント・パティがサマーキャンプで赤毛の女の子に会って泣き出してしまうというエピソードがあります。このエピソードは、登場以来スポーツ万能で快活な少女(授業中居眠りをするというキャラ付けはまだない)だった彼女が、実はコンプレックスを抱えていたことが判明してしまうという非常に重要なものだったのですが、それだけではなく「ルックスに執着する社会の虚栄への批判」それがペパミント・パティのような少女にとっても有害だという批判の波を起こそうとしていたんだそうです。深いなあ。

ピーナッツでペパミント・パティほど心の内や家庭環境などが掘り起こされているキャラは他にいません。これについてはまた別に書こうと思います(一度書いてますが)。

シュルツさんおよびピーナッツは、中絶、職場での男女平等、学校の性教育の問題に関わっていたそうですが、ピーナッツと性教育の関係が本書ではちょっと不明瞭で、シュルツさんがどのような考えを持ち、どのような発言をしていたか、というのには興味が尽きません。どこかの媒体ではっきりするといなあ。

| | コメント (0)

2023.08.14

「スヌーピーの会話術」を購入

「スヌーピーの会話術」を購入しました。

20230814192208

とはいえ、「スヌーピーがいたアメリカ」もまだ途中ですし、図録も2冊溜まってますし、アニメも観なきゃならないので、読むのはまだまだ先になりそうです。

香山リカ著なのかな~と思わせて、実は監修。実際に本文を書いているのは誰なんでしょうか?

| | コメント (0)

2023.08.11

「小さなベストフレンド ウッドストック」展の図録を読む

2022年7月からスヌーピーミュージアムで開催していた「小さなベストフレンド ウッドストック」展の図録を今さらながら読みました。

購入したのはずっと前だったんですが、一緒に買ったその前の展示「しあわせは、みんなの笑顔」の図録の序文の破壊力がひどくて読む気が失せておりました。

図録の序文はミュージアムに掲示されていたものを収めたものだと思いますので、これが間違っているというのは結構問題なんですがね。

で、残念ながらこの「小さなベストフレンド ウッドストック」の図録の序文も、ちょっと引っ掛かる内容になってますな。

"小鳥たちがピーナッツに登場したのは連載開始後数週間のうち"だそうで、終盤のシュルツさんの1971年のインタビューの引用でも"もう15年も小鳥を描いているけれど"となっています。

いやいや、連載当初に登場したのは小鳥ではなく割とリアルなでかい鳥でしたし、1971年の段階でも15年も小鳥を描いてはいないはずです。

どういうこと?

これはその後に続いて載っている英文を読んで解決しました。要するにこれを翻訳した人(奥付によると木下哲夫という人)が、"Birds"というのを全部「小鳥」と翻訳してしまっているんですね。別の場所では"Small bird"という言葉が使われていたりするのに。

これは誤訳の範疇に入るひどい翻訳と言わざるを得ません。これを読んだ人は50年代からウッドストックのような小鳥が登場していたという間違った知識を埋め込まれてしまいかねません。

待てよ待てよ。

この木下哲夫っちゅう人は50年代からウッドストックのような小鳥が登場していたと思い込んでいたのでは?だからこんな変な翻訳をしたのでは?…つまり、この人はピーナッツに詳しくない人なのでは?

で、それをそっくりそのまま掲示するミュージアム側も、はっきり言って素人集団なのでは?

こんなレベルだったら「チャールズ・シュルツ・ミュージアムの世界で唯一のサテライト・ミュージアム」なんて偉そうなものを名乗るのは辞めた方がいいですね、ほんと。

・・・・・・

まあそれはそれとして。

冒頭にシュルツさんのウッドストック命名についての言葉が引用されています。今日ではウッドストック命名はあのウッドストック・フェスティヴァルが由来というのはシュルツさん本人も認めていますし一般的にも知られていますが、かつて70年代はフェスティヴァルとは関係ないというのが通説だったんですよね。

それはシュルツさんが否定していたからです。なぜ否定していたのか、なぜ後年それを翻したのかはわかりませんが、まあどう考えたって無関係なわけはありませんよね。

・・・・・・

収録されたストリップ(=展示されていたもの)は、まあ良かったんではないでしょうか。唯一、P210の世界の終わりネタ(月刊スヌーピー読者には「アメリカ版オバQ」と言えば通じるかな?)は、特にウッドストックを扱ったものではなく、なぜこれが選ばれたのかは謎ですね。

| | コメント (0)

2023.08.10

スヌーピーの誕生日 スヌーピーの最後のセリフ

今日はスヌーピーの誕生日、および、スヌーピーの日です。とりあえず、スヌーピー誕生日おめでとう!

1968年8月10日付のストリップでスヌーピーの誕生日が祝われたことでこの日になったんですが、実はこのストリップは結構謎です。

今回はこのストリップの4コマ目、オチのスヌーピーのセリフ "Well, I'll be a brown-eyed beagle" について。

このセリフをどう訳すかというのは、このブログでも過去に何回かやっていますが、中々正解が見つからないというのが正直なところです。

 

まず、アメリカのピーナッツの権威であるデリック・バング氏の解釈について。彼はこのセリフを見て著書で「スヌーピーの眼の色がわかった」と書いています。ほぼストレートにこのセリフを読んでいますね。

この著書の翻訳をした笹野洋子氏は、「そうか、ぼくは茶色の目をしたビーグルなんだ!」としています。
うーん、「誕生日おめでとう!」の返しがこんなセリフでいいんでしょうかね?また、この訳であれば正しくは"I am a brown-eyed beagle!"で、時制が違うのではないか、とブログの読者(まぐさん)から突っ込みも入っていました。

次。

谷川俊太郎氏の場合、最初に翻訳したときは「ぼく素直になろうっと!」でした。ちょっと近づいた感じですかね。"brown"には『謙虚・自制・単純さなどの象徴』という意味合いがあるそうです。

次。

次はパックンです。彼は学研のムックでこのセリフを解説しています。それによると、"I'll be a 〇〇" という構文の〇〇に「ありえないこと」を入れると「ありえな~い!」みたいな意味合いになるんだそうです。で、パックンの訳は「ワーオ、ありえない!(くらいにうれしい)」でした。

まあこれがオチとしては最もしっくりくるかもしれません。ただ、ビーグルの眼は黒色で、茶色というのは「ありえない」というほどのインパクトではないのではないか、と2014年のワタシは指摘していました。

あと、最新の翻訳であるピーナッツ全集で、谷川氏は「わあ、茶色の眼をしたビーグルは果報者だね!」と再翻訳しています。これは余計だったかも。

最後に。

Google翻訳にぶち込んでみたところ、「私は茶色い目のビーグル犬になります」となりました。役に立たんな~。

| | コメント (0)

2023.08.09

「スヌーピーがいたアメリカ」第6章を読む

第6章は環境問題などについてでした。

1959年のサリー誕生のころ。喜びに満ち溢れていたチャーリー・ブラウンに対し、ルーシーは人口過剰が問題になっているのに妹が生まれるのがそんなに嬉しいのか?と彼を攻撃します。ほかのみんなが割と祝福している中でルーシーだけはいつも通りの調子ですが、実は当時すでに人口過剰が問題化していたとのことで、ルーシーの指摘はあながち間違っていなかったという…。

人口過剰問題というのは即ち資源・食料不足問題に直結するわけで、これも環境問題なわけですな。

・・・・・・

人気漫画のキャラクターは得てして政府広報などに使われます。ピーナッツも類にもれず。しかも環境保護運動と経済活動重視の運動の相反する両方に使われました。第二次大戦時、ベートーヴェンが枢軸国と連合国の両方に使われたことにも通じますかね?

・・・・・・

人口過剰、エネルギーの節約、死の灰、森林伐採、大気汚染、環境問題は色々あります。ピーナッツは間接的・直接的にそれらを取り上げてきましたが、環境問題がストレートにテーマになったのはアニメ「植樹祭だよ、チャーリー・ブラウン」でした。ワタシのこの作品が大好きです。

このアニメについてシュルツさんが、既にホリデー・シーズンものはネタ切れになっていてこれしかネタがなかった、とジョークにしていたと書かれていますが、確かに所謂名作群の最後の作品であります。更にはヴィンス・ガラルディ最後の作品でもあります。節々で活動家の言葉が引用されていたようで、これは普通にアニメを観ていただけではわかりませんでしたね。

大気汚染問題については、アメリカ肺協会の依頼(および出資)により"Charlie Brown Clears The Air" という啓発アニメが作成されたそうです。こんなアニメがあったとは知りませんでしたね。YouTubeで検索したら見つかりました。長さは6分、音楽はヴィンス・ガラルディの「カボチャ大王」のものを再利用しています。このアニメは6分とはいえまずストーリーがあり、チャーリー・ブラウンがクラスで発表をして、ライナスたちが「僕たちに何ができるんだろう」と言うという普通のスペシャルに通じる構成になっていますね。スペシャルでやればよかったのに。

 

| | コメント (0)

2023.07.28

「スヌーピーがいたアメリカ」第5章を読む

第5章はベトナム戦争です。アメリカを語る上でこれは避けられませんな。

撃墜王スヌーピーは1965年のベトナムへの派兵とほぼ同時に登場しています。撃墜王の舞台は第一次大戦ですからベトナム戦争とは直接的な関係はないように思えますが、これもまたキリスト教を扱う時に見せていたシュルツさんの賢いやり方で、敢えて第一次大戦を舞台にすることでストレートな表現になることを避けていたわけですね。

本書では、ベトナム戦争の戦況と撃墜王の変遷を時系列で解説していて、状況が非常にわかりやすくなっています。

最初は割とお気楽な感じで登場した撃墜王ですが、ベトナムが泥沼化するにつれてどんどん病んでいきます。

どの戦争なのか曖昧なまま、撃墜王は捕虜になったり、母の日のカードを買ったり、いくつかの変遷ののち1969年、「この愚かな戦争に呪いあれ!」と叫びます。どの戦争?もうベトナム戦争のメタファーであることを明らかにしちゃいましたね。同年6月には撃墜王は任務を放棄し逃走、それ以来ベトナム戦争が終わるまでレッドバロンを追うことはなくなりました。もはや戦争は笑える対象ではなくなっていたのですね。

撃墜王エピソードはピーナッツ全集で年代順に読むことはできますが、戦況の変化を感じながらでないと中々理解できないのだな、ということを思い知りました。ワタシは結構流して読んでました。

一方、スヌーピー以外の人間たちもベトナム戦争に翻弄されています。顕著なのがサマーキャンプ・ネタです。サマーキャンプに送られるチャーリー・ブラウンは「徴兵された気分だ」とつぶやいています。「サマーキャンプは徴兵の訓練なんだ」なんてセリフもありました。

あるストリップでは「いつか僕が徴兵されたとき…」なんてセリフが出てきたりしますが、終わりの見えないベトナム戦争の泥沼化は子供にも影響を与えていて、本書ではある親がスポック博士あてに「自分の9歳の子供が18歳になった時にも戦争が続いていて徴兵されるのではないかと怯えている」という手紙を出したという話も紹介されています。どれだけの閉塞感よ!

また、フランクリンの場合、彼の口から父親がベトナムににいることが語られます。文中の「チャーリー・ブラウンの父親よりもフランクリンの父親の方が死に近い」という表現にはドキリとしましたね。

スヌーピーはデイジーヒル子犬園でのスピーチで暴動に巻き込まれます。暴動の原因はベトナムに送られて帰ってこない犬についての抗議でした(このエピソードはワタシが3冊目に読んだピーナツブックス30巻に収録されていました。ベトナム戦争という具体的な表現があって印象深かったエピソードでもあります)。

シュルツさんはベトナム戦争には批判的でしたが、正しい正しくないはともかくとして従軍している兵士たちにはエールを送っていました。スヌーピーはベトナムではヒーローだったといいます。

今でもオークションでスヌーピーのイラストが描かれたジッポーとかが出ていたりしますが、あれはその名残でしょうかね。

・・・・・・

あと個人的に面白かったのは、モート・ウォーカーが何度か登場してきたことです。モート・ウォーカーはコミック「ビートル・ベイリー」の作者で、初期のシュルツさんを漫画家協会に加入させるべく奔走した人物でもあります。

「ビートル・ベイリー」は戦争をしない軍隊漫画で、ワタシの知る限りベトナム戦争を彷彿させるような漫画は全く描いていませんでした。そんなスタンスの人だったからでしょうか、シュルツさんが一連の撃墜王ネタを描くことをものすごく心配しているでいるんですよね。

| | コメント (0)

2023.07.27

「スヌーピーがいたアメリカ」第4章を読む

第4章は人種問題です。

シュルツさんが黒人少年のフランクリンを登場させたのは、ある読者からの熱心な働きかけだったというのは有名ですが、本書ではそこのところを深掘りしています。

当時コミックに黒人を登場させようかどうかを悩んでいたのはシュルツさんだけではなくもっと沢山いたんですね。結果的にシュルツさんが先陣を切ったわけですが。

しかしワタシは誤解していました。フランクリンの登場は実は大成功ではなかったのです。

フランクリンの初登場は大成功でしたが、その後何週間も出番がなかったこと。90年代こそチャーリー・ブラウンの話し相手として出番が増えましたが、70年代を通じてどんどんフェイドアウトしていき、結局メインキャラにはなれなかったこと。フランクリン以外の黒人少年が登場しなかったこと(厳密にはマイロ、谷川訳ではミロ、がいますが)。

結局シュルツさんは後ろ向きだったんです。シュルツさんに熱心に働きかけた「ある読者」とその仲間の夢は果たされなかったんですね。

この章はちょっと暗い感じで終わります。

それはそれとして、一方ではペパミント・パティがホッケーの練習をしているフランクリンに対して「ナショナル・ホッケー・リーグには黒人選手は何人いるの?」と問いかけるという人種問題をストレートに描いたストリップもあります。

ワタシはこれを月刊SNOOPYで読みましたが、結構驚きましたね。

ペパミント・パティは人種差別主義者だったのか?シュルツさんも所詮は白人か?

そのように解釈した人は何人もいて、月刊SNOOPYの投書欄にも「シュルツさんが人種差別的な漫画を描くなんて」なんてのが載ったりしてました。

しかし当時ナショナル・ホッケー・リーグには黒人選手が1人しかいなかったそうで、実はこれはシュルツさん流の社会批判だったんですね。そんな事情を知らない日本人には真意がわかるわけもなく…。

この現象はアメリカでもあって、後年若い読者がこのストリップを読み、当時の我々のような反応をしたりしてシュルツさんをイラつかせたようです。

あと、ピーナッツにおける最初の人種問題ネタはフランクリンではなく、実はホセ・ピーターソンだったという。

なるほど。ホセ・ピーターソンは北欧と南米の混血児で、確かにマイノリティーでした。
本書では、全然喋らないホセ・ピーターソンについて「英語が喋れないのかも」という推論を立てていますが、そういう解釈もできますね。

・・・・・・

因みに、70年代までの日本におけるフランクリンの扱いについてですが、初登場の海岸でのチャーリー・ブラウンとの出会いと、2度目の登場のチャーリー・ブラウン宅をフランクリンが訪ねるエピソードは、2つともピーナツブックスには未収録でした。

日本の読者はかろうじてピーナツブックス26巻巻末の登場人物紹介と月刊SNOOPYに載った2度目の登場エピソードで彼のことを知ったのでした。

なぜ鶴書房がフランクリン登場エピソードを掲載しなかったのか。それは謎のままです。

・・・・・・

ついでにもう一つ。

海外のブログで「私の嫌いなピーナッツ・キャラ」というようなものがありまして、読んでみるとフランクリンが5位中に入っていました。公然と黒人批判か、勇気あるなあ…まあ、書いている人の人種は分かりませんが。

彼は何故フランクリンが嫌いなのか。読んでみると、フランクリンは普通過ぎるんだそうです。

フランクリンの登場は公民権運動の時代ですから、所謂ステレオタイプの黒人像にするわけにはいかなかったでしょうが、成績優秀で習い事などもしている彼はどこか優等生っぽくもあり、そう思う人もいるんでしょうなあ。

| | コメント (0)

2023.07.26

「スヌーピーがいたアメリカ」第3章を読む

第3章はキリスト教についてですね。

今はともかく、アメリカという国は70年代くらいまではキリスト教国家だったんだろうと思っていましたが、どうもそうではなかったようですね。

シュルツさんは非常に熱心なキリスト教信者です。ですからその作品であるピーナッツにそれが反映されないわけがありません。しかし、キリスト教をあまり前面に出すと少なからぬ読者に敬遠されてしまいます。

ではどうすればよいか?ここがシュルツさんの賢いところで、作品をキリスト教に染めるのではなく、ライナスを聖書大好き人間に仕立てて彼に語らせるという手法をとったんですね。宗教を漫画全体を支配するテーマではなく1キャラクターの特徴として導入することでリスクを回避したわけです。ライナスは人気キャラですし、キリスト教信者にはメッセージが届きますし、そうでない読者は彼は聖書が好きなんだな~くらいで穏便に済まします。さすがです。

・・・・・・

もう一つキリスト教どっぷりの国ではなかったんだな~と思わせてくれたのが、アニメ「チャーリー・ブラウンのクリスマス」のくだり。

このアニメもライナスを使って「クリスマスって本来こういうものだ」というメッセージを発信していたわけですが、当時のアメリカのテレビはクリスマスの宗教的な意味については全く取り扱っていなかったそうで、それだけに大きなインパクトを与えたということのようです。

ワタシはこのアニメはNHKの本放送は間に合いませんでした(まだファンじゃなかった)が、中学生時代に東京12チャンネルの放送で観ることができました。

アメリカの宗教事情など全く知らないガキでしたが、観終わった後ちょっと敬虔な気分になりました。

・・・・・・

それにしてもここまで読んで思うのは、シュルツさんという人は結構色々なところで宗教や政治について語っていたんだなーということ。それだけの資料がありながら、この本が出るまでシュルツさんの思想を研究した本が無かったということにちょっと驚きました。

この先も楽しみです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧