突然ですが、ピーナッツのアニメの邦題について思うところをつらつらと。ひょっとしたら同じような事を以前にも書いたかもしれませんが。
「チャップリンの伯爵夫人」という映画がありまして、私は小学生の頃にテレビの洋画劇場で観たんですが、これが全然面白くありませんでした。
タイトルからして、私は所謂チャップリン主演のドタバタ喜劇を期待しておりました。しかし始まってみると別人(マーロン・ブランド)が主演のカラー映画だったので私はがっかりしてしまったんでした。
この映画が果たして本当に面白かったかどうかは判りませんが、少なくとも最初からロマンティックコメディだと解って観ていれば、もっと楽しんで観賞できたかもしれません。しかし脳が完全にチャップリン・シフトになっていたので、画面で何をやっていても全然ダメ。ギャップが埋められませんでした。
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こういう事って、ピーナッツのアニメにもあるんじゃないでしょうか?というのが私の疑問であります。
例えば、
「スヌーピー、恋はつらいね」というタイトルのアニメを観てみたら、赤毛の子に気持ちを伝えようとするチャーリー・ブラウンの苦悩の話(スヌーピーは出てたっけ?という存在感)だったり…。
「スヌーピーのロックコンサート」というタイトルのアニメを観てみたら、ルーシーがシュローダーの気を引く為にPTAでのピアノコンサートを企画するも頓挫する話(ロックコンサートは開催されない)だったり…。
「スヌーピーの名コック長」というタイトルのアニメを観てみたら、感謝祭に強引に押しかけてくるPパティの為に即席の晩さん会を開くチャーリー・ブラウンの苦悩の話(スヌーピーの料理はサンドウィッチやポップコーンなど)だったり…。
「スヌーピーとパーティークイーン」というタイトルのアニメを観てみたら、チャーリー・ブラウンがフットボールの試合で延々失敗しまくる話(スヌーピーとクイーンは全く絡み無し)だったり…。
「恋するスヌーピー」はスヌーピーは恋しない、「スヌーピーの選挙活動」はスヌーピーは立候補しない、その他諸々。
これらの邦題はDVD用のタイトル(現行品ではない物も含む)です。
なんかこう、タイトルでスヌーピーが活躍してそうなイメージを抱かせておいて、実際観てみたら全然期待はずれな内容でがっかり、というような事態が幼児中心に引き起こされているんではないか、というのが不安だったりします。
タイトルにスヌーピーを付けなければ引きが弱いというメーカーサイドの思惑も判らないではないです。しかし、後は野となれ山となれ、では困ります。お蔭で「スヌーピーのアニメ=つまらない」というレッテルを貼られてたら、どーしてくれるんでしょう。
カートゥーン・ネットワークで放送しているものは、吹替がアレにも拘らず邦題はマトモなので大丈夫だと思いますが、レンタル屋でのスヌーピーって本当に人気が無いんですよね。
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こういった邦題の問題はアニメに限りません。書籍にもあります。まあ書籍の場合はそれ程大きな問題ではないと思いますが。
シュルツさんの伝記「Good Grief」が「スヌーピーと生きる」になってしまったり。
デリック・バング氏の「50 Years Of Happiness」が「スヌーピーたち50年分のHappy Book」になってしまったり。
50周年記念本「Peanuts A Golden Celebration」が「スヌーピーの50年」になってしまったり。
ロバート・ショートのベストセラー「The Gospel According to Peanuts」が「スヌーピーたちの聖書のはなし」になってしまったり。
これらの中で一番ショックだったのは「スヌーピーと生きる」でしょうかね。最初にリブロポートから出版された時の邦題は「グッド・グリーフ」だったんですが、朝日から出直しになった時にあのタイトルになってしまいました。
「グッド・グリーフ」…これ程ピッタリなタイトルはないでしょう。それが「スヌーピーと生きる」に。
シュルツさんの伝記なのにタイトルが「スヌーピーと生きる」ってねえ…。
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